涼宮ハルヒのアナリーゼ

(2013/11/9)

『涼宮ハルヒ』は、2003年に角川から発行された谷川流(たにがわ ながる)のライトノベルであるが、2005年にはツノダガクが『涼宮ハルヒの憂鬱』として漫画化し、2006年からは京都アニメーションによってアニメ化された作品集である。2009年には新作として再度アニメ化されている。

ツノダガクの漫画本は不評であったが、いとうのぢが原画をデザインし、池田晶子がアニメーターとして作画した京都アニメーション制作のアニメでは様々な無理(無茶ぶり)が盛り込まれており、アニメにおける実験的作品となっている。

さらにここにおいて、顕著なる変化は購買層における変化である。すなわち1995年当時はアニメは、「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるように内向性、非日常性、科学的知識という鎧を纏ったオタクの占有物であり非一般性によって裏付けられいた。この世代の購買層の特徴とすると、知らない事は恥であり、脱落なのである。そこで例えば、使徒の種類とか武器の名称とか些細な事柄までも引用された知識として保有する事で知識層としての連帯感を持つのである。

しかしながら、2009年においては、アニメは親からも許容され、教室においてもオタク自体はマイノリティではなくなっている。すなわち、自分だけがこのアニメの理解者であるという非一般性を伴った伝導者(エヴァンゲリスト)という優位性は失われたのである。この世代の購買層の特徴では逆に、知らない事は知らないですむのである。そこでは軽いギャグは読んだ次の瞬間には忘却するのであって、種類とか名称とかには粘着しないのであり、わざわざ引用されることは無い。引用があるのはリスペクトした作品に対する元ネタの出どころに対する知識である。(銀魂など)

伝導者としての立場を失ったアニメ購買層は、「中ニ病」的な妄想を装った萌えに陥るか、手軽なパロディとしてこれらのアニメのニッチを認識したのである。

01-涼宮ハルヒhrh30
[涼宮ハルヒの憂鬱より]

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『涼宮ハルヒ』における非日常性とはなにか。笹の葉ラプソディのようなタイムスリップなのか。

「東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。
この中に宇宙人、未来人、異世界人がいたら、あたしのところへ来なさい。以上」

これは涼宮ハルヒの最初の自己紹介である。エキセントリックではあるが、この言葉自体には非日常性はない。しかも、長門有希・朝比奈みくる・古泉一樹が宇宙人、未来人、超能力者であり反現実性(と自己申告している)かどうかも本当はわからない。すべてがキョンの妄想の産物である可能性もある。

ではなにがここにおいて非日常性なのか。それはSOS団ではないであろうか。つまりは既存の部活動や団体に満足できなかった涼宮ハルヒは、自分でSOS団なるものを作り上げる。それは非日常性を探し求めるという名目のもとで、実際には極めて日常的なオセロなどをやってだらだらと時間をつぶすという部活動である。

このどの学校にもありがちな設定に見えながら、塾がとか模試の結果がとかの高校生にとっての日常的な会話はなされていない。このありふれた(ように見える)学校生活自体が実際にはあまりありえないという非日常性なのである。

それを逆にMADとして描いているのが『らき☆すた』である。この中での高校生はアニメが見たいから帰宅部であり、運動能力が高くても「疲れるから」運動部には所属しない。それでいてバイトとショッピングには労をいとわないのである。
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『涼宮ハルヒ』の非日常性が崩壊するチャンスが2回ある。

一度目は「ライブアライブ」である。学園祭のバンドに代役で演奏をしたハルヒは、

「ライブもいいものよね。あんなのでよかったのかなって少しは思うけど・・・。けど、そうね。楽しかったわ。何ていうの? いま自分は何かをやってるっていう感じがした。」

この言葉から象徴されるのは、涼宮ハルヒがSOS団から卒業し、現実社会の日常性に居場所を見出したということではないだろうか。

ブランド物を身に纏い、ネイルにエステと女を磨くことに幸せを見出していた女性がアラサーになって。「何ていうの? 女の魅力はお金じゃ買えないよね。いま自分で何が出来るかよね。」っと公園デビューへ目覚めた日常性とも共通項があるように感じる。


[ライブアライブより]

二度目は「涼宮ハルヒの消失」である。ここでは涼宮ハルヒは光陽園学院の生徒になっており、キョンと長門有希は北高に残された形になっている。

この長門有希の潜在的渇望によって改変された世界のなかでは、涼宮ハルヒは非日常性を求めているわけではない(涼宮ハルヒの性格上、面白そうだという野次馬的な興味は持っているようだが)

非日常性を欲求していたのは他ならぬキョンの方であった事がわかる。

「面白いいかそうでないかと訊ねられて、面白くないなどと答える奴がいたら、そいつはホンマモンのアホだ。ハルヒの三十倍も無神経だ。
宇宙人に未来人に超能力者だぞ?
どれか一つでも十分なのに、オモシロキャラ三連発だ。おまけにハルヒまでがそこにいて、より一層のミステリーパワーを振りまいているんだぞ。これで俺が面白くない分けがないだろうが。」

しかしこの科白もまたかれの心情を吐露したものであるとは限らない。変わらずにいて欲しいという自分勝手な要望もまた真実なのであろう。
オトコは時としてこの状況が永遠に変化しないでいることを心の底で願うものである。
永遠の友情、永遠の青春、卒業しないクラスメイトなどといえば幼児性から脱皮できないことになりかねないが、それもまた心情なのであろう。

02-長門有希02
[涼宮ハルヒの消失より]

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ここで日常性と非日常性についての考察をもうひとつ。

「エンドレスエイトⅠ~Ⅷ」である。エンドレスエイトとは8月17日から8月31日までのループを15532回くりかえすものである。(アニメでは8回の繰り返し)

15日間×15532回=232980日=638年と110日の繰り返しであるが、記憶も細胞の老化もリセットされる。原作では長門有希によって記憶のリセットがされない処置をしてもらえるが、そうなるともはや地獄になる。

しかしながらよく考えると、エンドレスエイトが非日常性というのであれば、毎日の暮らし自体も非日常性ということになる。
朝起きて、顔を洗い、朝食を摂ってから出かけ、夕方には帰宅して飯を食って寝る・・・という無限ループとそれほど変わりは無いのではないだろうか。

夏休みが無限に続いているということが非日常性だというのであれば、年金生活になって毎日タイで夏休みだったとしても、それはそれで日常性なのである。
つまりは所詮人生など、15日の出来事の繰り返しに過ぎないものであって、冠婚葬祭・旅行・事件などの起こる方が非日常性なのである。

徳川吉宗が悪人を切り殺したり(暴れん坊将軍)、ビデオを見ただけで貞子が無関係の人々を呪殺したり(リング)とかが、我々がTVや映画のドラマの中に求めているものは非日常・反現実の世界であって、エンドレスエイトの反現実性はあまりにも現実の日常を見せられたという思いからの「ありえなさ」を感じるのではないであろうか。

03-haru09.jpg
[エンドレスエイトより]

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ハルヒの絵は意外と描きやすいのですが、デジタル化すると似たキャラになってしまうという欠点もあります。

05-HARUHI.jpg
[涼宮ハルヒを描いてみました]

※現実には涼宮ハルヒのような子がいたしたら・・・・けっこうめんどくさい子だと思う。


JIMMY

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