『蘭陵王』と三島由紀夫の死



藝大で雅楽を聴くことがありました。
演目は、雅楽「蘭陵王」「越殿楽」と春に合わせた雅やかなものです。
雅楽というと、「平清盛」ですね。視聴率は散々でしたが。
宮中では現在も雅楽は演奏されています。

きょうはその中で『蘭陵王』についての考察です。

01_宮内庁式部職楽部 『蘭陵王』
[宮内庁式部職楽部 『蘭陵王』]

『蘭陵王』というのは中国の南北朝の時代に北魏のあとの斉(北斉)が周(北周)に滅ぼされるという時期の悲劇の斉の将軍・高長恭です。美貌であったが戦いの場では獰猛な鬼面を付けて臨み百戦無敗だったといわれています。

笛が、息もたえだえの瀕死の抒情と、あふれる生命の奔溢する抒情と、相反する二つのものに、等しく関はり合ってゐるのを私は見出した。蘭陵王は出陣した。そのときこの二種の抒情の、絶対的なすがたが、奇怪な仮面の形であらはれたのであった。きりきりと引きしぼられた弓のやうな澄んだ絶対的な抒情が。『蘭陵王』(三島由紀夫)




[蘭陵王]

しかるに、蘭陵王の武功は北斉の後主・高緯の妬みと疑心を招きます。そのため蘭陵王は忌まれ鴆毒を遣わされるのです。
史書に曰く「貌柔心壮、音容兼美」とあり、眉目秀麗であり、忠義に厚く部下にも優しく接していたとありますので、王位の簒奪を恐れたのかもしれません。
忠義は悲劇を招き、その結果、国士を失った北斉は滅びる運命を迎えます。

三島由紀夫が壮絶な割腹自殺する前年に書いた小説『蘭陵王』の中では、盾の会の自衛隊訓練での生活が描かれています。
富士の裾野での小隊戦闘訓練のあとに、青年の奏でる龍笛を聴きながら、美しい相貌を獰猛な仮面に包んだ蘭陵王に、内面の自己愛の自分と鬼面の自分という二面性の対峙の中に永遠なるものを見出していたのかもしれません。

音には、しかも一片の暖色もなくて、寒色ばかりで占められてゐる。はなはだ遠くにきこえるかと思ふと、忽然として近くに在る。そのとき笛の音のなかに、何かの面影が立ち休らふのが見える。
 音がなだらかな坂を下りきると、今度は永遠につづくやうな急坂を昇りはじめ、切迫した息の苦しみはひしひしと身にせまり、氷結した死が、青年の息を迎へ入れるために、かなたに口をあいてゐた。
 私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知った。何も発展しないこと、これが重要だ。音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(中略)、決して発展しないということ以上に純粋なことがあるだらうか。『蘭陵王』



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[蘭陵王 出典:amazon]

三島由紀夫が憂国の士であり、その延長線上として自らの死を割腹という形で迎えたのかどうかは分りません。
かかる劇上の演技者としての自分が鬼面の姿であり、迷いに憂う青年としての自分が内面の美しい面貌の姿なのかもしれません。

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[春の雪]

長編「豊饒の海」の第壱部『春の雪』では、松枝清顕は心に秘した慕情を仮面の下に覆い隠し不器用にも突き放してしまいます。ここでの仮面は鬼面ではなくあくまでも無表情で冷たい態度の仮面です。しかし内面の自分は燃えるような恋情に身を焦がし我が身の破滅をも厭わない熱いこころの持ち主なのです。
しかし婚約も成立し、既に遅きに至り禁断の恋に懼れた綾倉聡子は出家の道をえらびます。諦めきれずに春の雪の中で清顕は病を押して聡子に会いたい一心のままに悲劇的な死を迎えます。やがて蝶に化身してはじめて逢う事がかなったかのような結末を迎えます。

81歳になった本多は、月修院を訪ねることにした。月修院の山門の前に立ち、60年前、自分は一人の青年として、正に同じ障子の前に立つてゐたという思いが募った。
『劫初から、今日このとき、私は一樹の蔭に憩うことに決ってゐたのだ』
奥に通ずる唐紙が開いた。白衣に濃紫の被布を着て、青やかな頭をしたこの人が、83歳になる筈の聡子であつた。
その聡子に、清顕のことを話し始めたとき、返ってきた言葉は「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」というものであつた。「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし、松枝清顕さんという方は、お名を聞いたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかったのと違いますか?なにやら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」『天人五衰』


市ヶ谷駐屯地における決起の日に入稿した最終章『天人五衰』の中で、『春の雪』で激しい悲しみと死によって引き裂かれた恋びとたちのことを月修寺門跡(綾倉聡子)は、松枝清顕を知らないと言っています。それが、三島由紀夫の分身である本多の幻覚であったのか、もはやそれは迷いも抒情もすべてが無に帰した世界での出来事であったのか。
そこに描かれる男と女、人とひとのかかわりはうたかたに過ぎぬのか、仮面に秘する思いすらもまた儚い世迷言なのか。

何度も!何度も!くりかへされる感情と、そのたびにちがふ愛の切実さ。百とほりもの、それぞれに微妙にちがつた真実。すべてが闇のなかの清流のやうに、きらめいて流れる。昼間見たあの小橋の下の激湍は、今も闇に、おなじ水音を立てて流れてゐるのであらう。
そして気がついたときは、笛の音は二度と引返せない或る深みへわけ入つてゆくところだつた・・・『蘭陵王』



龍笛を何時間も続けると、吐く息ばかりになるので幽霊を見ると著者は書いています。しかしまだ幽霊を見るには至っていない未熟さに己を恥じています。
うつし世と幽世のはざまで、龍笛に導かれるように現れる仮面の下に隠された姿は永劫の時を刻むようにも思えてきます。


JIMMY

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